大東流合気柔術 逍遙館

大東流合気柔術 逍遙館

■大東流合気柔術 逍遙館

逍遙館の前身は『大東流合気武道 大東館 九州総支部 福岡道場』(1987年設立)です。
2003年より『大東流合気柔術 武術稽古道場 逍遙館』として独立し活動しております。

『逍遙館』の「逍遙(しょうよう)」は『荘子』内編「逍遙遊編」からの引用で
~散歩・心を俗世間の外に遊ばせる事・悠々自適~等の意味です。

■逍遙館 館長 小関茂義

1960年 福岡市生まれ
大東流合気柔術 五段 中伝 奥伝相伝
(大東流合気柔術教授代理 大塚寅之助先生より印可)

  • 1987年 大東館 九州総支部長大塚寅之助先生に弟子入り、武田時宗門下生となる
        同年大東館 福岡道場を立ち上げる
  • 1993年 武田時宗宗家没後、大塚寅之助先生の命により、
        大東流合気柔術琢磨会 福岡県本部長就任
  • 1995年 大東流合気柔術 白鳳会 福岡県本部長就任
        大東流合気柔術と共に、惣角伝小野派一刀流を修行
  • 2003年 『大東流合気柔術 武術稽古道場 逍遙館』設立
        自らの武術修行により、剣術・棒術を研鑽、大塚寅之助先生の監修を得て
        大東流合気柔術に加え逍遙館の稽古体系に導入

追記:私が大東流合気柔術に出会った経緯(武歴に代えて)

■大塚寅之助先生

  • 大正15年~平成17年
  • 大東流合気武道 和敬塾 初代塾長
  • 大東流合気柔術七段
  • 大東流合気武道 大東館 九州総支部長
  • 大東流合気柔術 教授代理(久琢磨先生・山本角義先生より印可)
  • 九州の小さな巨人と呼ばれ、武術研究に大きな足跡を残す
  • 著書:日本電信情報史「極秘電報に見る戦争と平和」

■逍遙館 稽古内容

第36代武田時宗宗家制定の大東流合気柔術初伝118ヶ条を主軸に、中伝、奥伝、
武田惣角伝小野派一刀流、棒術、護身術の稽古をそれぞれの段階に沿って行っています。

『我、師を求るには非ず。師の求るところを求む』
時宗宗家は、
「私はただ、惣角を求めているのです」
と言われていたそうです。
私達もまた、ただ、惣角先生を求めて修行していきます。

■逍遙館 各支部

  • ニュージーランド支部(支部長:山﨑礼 三段)
  • 九州産業大学支部(支部長:ルーク・フライア 三段)

■逍遙館 姉妹道場

  • 大東流合気武道 光隆館(カナダ モントリオール)

■私が大東流合気柔術に出会った経緯(武歴に代えて)

2010年は、「ブルース・リー」生誕70周年。本当に感慨深いものです。

*昭和42年・1973年*
私が初めて「ブルース・リー」と出会ったのは、
『燃えよ!ドラゴン』のスクリーン。
中学一年生の私の中で、何かが大きく動いて、芽を出しました。
それまで50回だった腕立て、腹筋が、その日から500回になりました。
「ブルース・リー」は、私の、「初めての先生」で、
個人的には今でも、『李先生』と呼んでいます。

李先生の「動き」も勿論ですが、
武術に対する姿勢に、大きな影響を受けたと云えます。
『燃えよ!ドラゴン』の中の名文句、
『Don't think. Feel』から続く一文は、
私を哲学へと導いてくれました。

*昭和51年・1976年*
それから、私は、てっとり早く、
「教則本」を見ながら、「空手」の稽古を始めたのです。
16歳のとき、空手道場に通い始めたのですが、
丁度その頃、
{空手バカ一代」が漫画で、
そして、映画「ロッキー」が、放映され、
私はますます打撃系に傾倒して行きました。
『肉の鎧を着てぶん殴れ』
(その後、映画「ターミネーター」でアーノルド・シュワルツェネッガーに影響を受け
 ボディービルを始め、1993年目標であった世界大会に出場しNBBF国際大会5位に)

*昭和57年・1982年*
しかし、目標であった「日本一」になった夜、ふと、思い返したのです。
「私はこの先何処へ行こうとしているのだろう。
 私が行きたい所は、この先にはないのではないか。
 私は、『侍』になりたかったのではないか。
 いずれは仙人のようになりたいと考えていたのではなかったのか。」

私は、その日以来、自らの「空手」 の修行に終止符を打って、
私が求めるものに出会うのを、探しながら待っていたのです。

私の理想の姿のひとつは、
少年期に好きで観ていたアメリカのテレビドラマ、
『燃えよ!カンフー』の主人公、
「クワイチャン・ケイン」(デビット・キャラダイン主演)なのですが、
その、『燃えよ!カンフー』の原案が、
「ブルース・リー」その人だったのです。

(*私の武術のイメージの根底にあるもの、そして憧れは、
 小学生の時学校の講堂で観た日本長編アニメ、
 『猿飛佐助』に出て来た「白雲斉先生」で、
 その姿は、その時から私の脳裏に武術のイメージとして刻み込まれています)

*昭和57年1982年*
22歳の頃、武芸に関する本を読み、武田総角先生の存在を知り、
大東流合気柔術に、言葉に出来ない位の関心を持ちました。

*昭和62年・1987年*
整体の勉強会で突然声を掛けられました。
「小関さんでしょう。私は大東流合気柔術の宗家を知っている人を知っているのですが、
 会いませんか?」

―その道正しければ、出会うべき時に出会うべき師に出会う。―

宿命に出会ったと悟った私は即座に紹介して頂くようお願いしました。
そしてお会いしたのが『拳法道総心塾』塾長明治博史先生でした。
明治先生は、武田時宗宗家先生と面識があり、武術に関する知識が深い方です。
現在でも何かと相談に乗って頂いております。

その明治先生が紹介して下さったのが、
大東流合気武道 大東館 九州総支部長 大塚寅之助先生でした。

大塚先生は、「やめないならば、教えよう。」と言われました。
私は、間髪入れず「ご教授よろしくお願い致します。」と答え、
わたしの大東流合気柔術修行が始まったのです。

大東流合気柔術の修行の上でも宿命的な流れに乗って、
私は幾人かの先生方に教授を受ける事になりました。
それは大塚先生の「いい先生がいたら何でも学びなさい」
との教えがあったからでもあります。
私にとっては武者修行の様なものでした。

そうして見えて来たのは、
=技には幾つものアプローチがあるのだと云う事=
私は「技」を
武術としては勿論の事、
学問として、
また芸術としても捉える様になりました。

そして現在に至る。

大東流合気柔術 武術稽古道場 逍遙館
館長 小関茂義

「学んで時に之を習う、 亦説ばしからずや
 朋あり、遠方より来る、 亦楽しからずや。
 人知らずして慍らず、亦君子ならずや。」(論語第一章)

*学習したら、そのことについて、いつでも時間さえあれば復習する。
 それはなんと嬉しいことではないか。
 同じ志を持つ友だちがいて、遠方からやってきてくれる。
 なんとそれは楽しいことではないか。
 誰も自分の実力を理解してくれなくても、不平不満に思わない。
 それこそ立派な君子ではないか。(「親子で楽しむこども論語塾」より)

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