大東流合気柔術について

大東流合気柔術とは

  • 一千年の歴史を持つ古武術
  • 源氏の合戦術
  • 武田家家伝の武術
  • 相撲と起源が同じ
  • 合気道の源流

大東流の由来

大東流合気柔術とは、およそ一千年前に源氏の合戦術をもとに体系づけられ、代々甲斐武田家に、信玄滅亡後は会津武田家に伝承されてきた武術です。 起源は相撲と同じく『古事記』の "国譲り" の項に記されている「手乞い」にあるといわれ、当流に於いて、その技法は合気陰陽法として合気投げの基本を成しています。

大東流の流祖は新羅三郎源義光(1045〜1127)という、平安後期に活躍した武将です。 兄である八幡太郎義家と共に後三年の役(1083〜1087)で活躍し、後に常陸国(茨城県)に進出し、佐竹氏、甲斐源氏の祖となった人です。 新羅三郎源義光は、弓馬の術にたけ、音律をよくした、と伝えられています。 笙の名手であり、笙の音に合わせて舞う白拍子の動きに、優雅で柔軟な中にも変化に富み隙のない無形の理があることを悟り、 また人体をよく観察研究して関節の仕組みを明らかにし、女郎蜘蛛が大きな獲物を搦め捕る様に極意を悟り、源家伝来の秘奥(小具足)に合気の概念を封入したと伝えられています。

義光から四代後の信義が武田家の姓を名乗り、甲斐武田氏の祖となり、その技が甲斐武田家に伝承されました。 その後およそ四百年を経て、武田信玄他界後、会津藩の地頭となっていた武田国継によって会津武田家に伝えられると、会津藩祖保科正之により、 同地の武術を取り入れて大東流を藩の御式内(御殿術)に定め、その大東流御式内の指導は、家老西郷家が代々勤めました。

明治になって、中興の祖といわれた武田惣角(会津坂下出身・1860〜1943)は、元会津藩家老の西郷頼母(保科近悳)から御式内を伝授され、 大東流合気柔術と小野派一刀流をもって、全国を行脚し伝承に努め、その門人は3万人に達しました。 惣角は150cmに満たない小男であったが、その技はまさに神技であり、眼光鋭く、透視力、精神力に優れ、それらにまつわる逸話も多く残っています。 昭和18年(1943年)に、青森で客死する86歳まで、一度も負けることがありませんでした。

惣角の没後は、子息の武田時宗(北海道紋別出身・1916〜1993)が、大東流宗家を継承し、技を整理し稽古の体系を整えて、大東流を広く普及させました。

武田惣角

武田惣角